贈り物を受け取らないとき、その贈り物は誰のもの?
贈り物を受け取らないとき、その贈り物は誰のもの?
SNSを見なければいいのについつい悪口を見てしまう…
あるいはついカチンと来て書き込んでしまう。
わたしも残念ながらまだまだ…なところは多いです。あれって癖がつくと反射的にやってしまいますからね。
誰かを憎む、と言うのは同時に「誰かを憎む自分」と出会うことと書かれていました。
今日はこちらから。
だれでもわかる ゆる仏教入門
著者 松崎智海
「誰かを憎む自分」に出会うと数珠繋ぎのようにあれこれ新しい事が思いつきます。
しかもそれ以外考えられない「醜い自分」と出会う
わたしは「出会う」ことに関しては仕方がないと思っています。だって、事故と一緒で、「たまたま偶然出会っちゃった」んだもの。
「たまたま偶然出会っちゃったできごと」は自分が経験をしなきゃならないもの。
目を逸らすか、向き合うか、受け取らないか
それは「出会った」自分次第です。
あるとき、お釈迦様がある人からひどい言葉を浴びせられます。しかしまったく気に留めません。
弟子が、「反論すればいいのに!」と訴えました。するとお釈迦様は、弟子にこう聞き返しました。
「贈り物をして、その贈り物を相手が受け取らなかったとき、その贈り物は一体誰のものになる?」
お釈迦様が相手の言葉を受け取らなかったということは、その文句はすべて相手が引き取ったことになる、と。
お釈迦様はわたしたちに様々な選択肢を渡してきます。
ああ、まじめに全て受け取って飲み込む必要は無いんだ、と。
SNSの飛び交う言葉も、
自分の目的に合わせて受け取るものを選んでいいんだ、と。
そう思うと少しSNSの付き合い方が楽になりました。
わたしが手に取る本は、
専門分野の小難しいやつではなく…できるだけわかりやすい入門書にしています。
わたしがわからないと伝えられないし、子どもにもわかりやすく伝えることができるがわたしの目標でもあるんです(じゃないと大人はあれこれ考えるからもっと伝わらない。わたし然り(笑))
なにより入門書は楽しいの入口。もっとより深めたくなったらドップリ沈めばいいのです。
ぐー👍
ライトではあるけど、
仏教ブーム到来。むふふ。
※この記事は、21年03月26日のInstagramで投稿されたものをリメイクしています。