認めてほしいと言う欲求をしっかり認める

「認めてほしい」を「慈しみ」に変える。

一分で読むブッダの教え

著者:アルボムッレ・スマナサーラ

「認めてほしい」を「慈しみ」に変える

人間がみんな本来持っている、「認めてほしい」と思う気持ちを、何とか「慈しみ」に変えなければいけないのです。

「認められなくてもいいんだよ」と。

人間はみんな忙しくて、自分の苦しみで手一杯で、そんな余裕がないのですから。

たとえば、一生懸命、すごく真剣にお茶を入れても、持っていったらカップに入っているお茶にしか見えません。

裏でどんなことをしていたか、推し量る余裕はないのです。

ですから、認めて「もらおうとせず、ただ自分が他人の役に立つように生きましょう。


アルボムッレ・スマナサーラ (2014). 『一分で読むブッダの教え』 株式会社 サンガ (43)

人間が本来から持っている欲求。
「認めてほしい」

これが結構やっかいなのはわたしだけではないはず。

このせいで、
見ないふりしてフタをして
こじらせねじらせどっぴんしゃん

何度繰り返せばいいんだろう。
ってぐらいつまずく回数が多かったもの。

残念ながら人はそこまで暇じゃない。
こんなに認めてもらえたくて必死なのに、認めてほしい人は別のことが忙しくて見てない。

そんなもの。
そんなもののために、振り回されるのがとてもやっかい。

だから自覚するしかないんだと思う。
あ、いま、認めてもらいたくて行動してるな、って。

人間が本来持っている「認めてほしい」と思う気持ちを「認められなくてもいいんだよ」に変えなければならない。

優しく厳しく伝えてくれたその言葉は、
あ、いいんだ。そうかそうか。

と安堵させてくれる。

自覚的でも無自覚でも、評価されるために生きてきた人はとても難しい生き方。
わたしも含めて、評価されることが当たり前な世界しか教わらなかったですからね。

でも、そっち(認められなくてもいいという考え方)の方が楽な生き方ですよ。と昔から伝わっている仏教的な考え。

今も色濃く残ってる考え方であり、
現代に生きるわたしが読んでもホッとする。

生き方として参考にしていい考えなんじゃないだろうか。

ヨガ哲学がよくわからない時、仏教の考え方は非常にわかりやすく導いてくれたりする。
(日本はヨガよりも仏教のほうが書物が多い)
(仏教の方が伝わるの早かったからね)

自由に考え方を取り入れて、
より良い生き方をたのしく模索してみる。

自分の、あるいは後の世代が生きやすくなるように。

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