高い理想と低い現実のあいだ

生まれてほどほどに生きていると、大人から目標を聞かれる。
そして、その目標を完璧にするために努力することを求められる。
はじめは簡単だったかもしれない。だから目標を達成することができた。

歳を重ねるごとにだんだんとプレッシャーになってきた。
完璧に出来ないものが増えてきた。
有言実行ができなくなってきた。怖くなった。言わないでいたほうが安心した。

自分に期待するのをやめた。

自分にとっての理想があって、その理想に向かって努力をする。
あ。理想が高すぎる。無理だ・・・。
そう、感じたとき、手にびっしょりと汗をかいていたのを思い出します。

完璧をいつも世の中から求められてる気がして、無意識に緊張していたんだと思います。

ヨガと出会って、先生になって、しばらくしても完璧思考は拭えません。
なにかヒントがないかと本屋をぶらついていた時、ぱらっと捲ったページで購入を決意しました。

存在が完璧だったら、お茶を飲むこともできません。

アルボムッレ・スマナサーラ(2014). 『一分で読むブッダの教え』 株式会社 サンガ (206)

度肝を抜かれました。
言葉の意味を理解するのに時間がかかるぐらいにはどきどきしていました。

やっぱりすごい面白い人だと思います。

一分で読むブッダの教え / アルボムッレ・スマナサーラ (著)

存在が完璧だったら、
お茶を飲むこともできません。

お茶が「温かいお茶」として完璧だったら冷めませんし、体に入らないはずです。

ー中略ー

自分の体もずーっと変化し続けるから「生きている」ことができるでしょう?
完全だったら変化しません。
体は細胞が壊れていくし、年も取っていくし、だから材料を入れなくてはいけないし、ご飯も入れなくてはいけない。入れても入れてもまたまたまた壊れていく。
それでこそ「生きている」といくことなのです。

アルボムッレ・スマナサーラ(2014). 『一分で読むブッダの教え』 株式会社 サンガ (206)

お茶は不完全だから冷めるし、体に入るし、分解されるし、要らなくなったら排出される。

「不完全だから」飲める。

「わたし」という存在もそうで、
細胞は知らないうちに壊されては作られるを繰り返している。
完全で完璧なものが「わたし」であるなら変化する必要がないから。

それは細胞だけじゃなくて、
年月が過ぎれば思考も変わってくる。

0歳児の思考のまま生き続けるのはとても無理。

わたしだって身近な事を言えば、

芝居しかない

と思っていた20代の思考そのままか…って言ったらそうでなく、

絶対やらないと思ってたヨガ

をしているし、

嫌いだと思っていた哲学や道徳

を学んでいる。

「わたし」が完全だったら、そもそも、

楽しいことも必要としないし、
悩む必要もないし、
新しいことを学ぶ必要もない。

存在するみーんな、不完全

それなのに、バカな人々は完璧を目指しているのです。

アルボムッレ・スマナサーラ(2014). 『一分で読むブッダの教え』 株式会社 サンガ (206)

って、かっこよく毒付いて締めているのも好きです。

わたしも、未だに人の顔色を見ながら「正解」を探している時があります。
長い年月掛けてやってる癖だからなかなか抜けないなあと見てはいるんですけど、
その「正解」ってつまり「完璧」なんですよ。

誰かの「正解」は、
わたしにとって「完璧」なんです。

つまり、バカな人々のひとりって事ですね🤣

はっきりと言葉になった今、
より誰かの「正解」を探すのを辞めました。

それから、完璧を目指すことも辞めました。

少しでも
わたしの経験が、
読んでくれてるあなたの力になると嬉しいです。

不完全なわたしは、
不完全なままいまを見つめ続けます。

※この記事は、21年04月16日のInstagramで投稿されたものをリメイクしています。

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